新盆
今年は母の新盆なので、13日に法要を行った。
あまり深く考えていなかったので、こんなに大変なものだとは思いませんでした。お通夜、お葬式は時間が決まっていて何とかそれなりに終わってしまうものです。お盆は朝早くから夜9時過ぎまで延々、エンドレスで続くのです。また、7日にお飾りを飾ること、船を作ったり、さまざまな打ち合わせ。特に大変なのは、とにかく事の次第を良く知っている人の少ないこと。
お葬式からセンドウさん(先導?船頭?)という方が2人ほどついてくれるのですが、この方たちに相談するのが一番いいようです。・・・このセンドウさんというのがまた大変なんだ・・・。正直、仕事にならないでしょうね。そして、頼まれたら、決して断ってはいけないそうです。
だんだん、お葬式もセレモニーホールで行われるようになってきましたが、私の部落では、まだまだ区民館のようなところで、近所に働きをかけて行うのが通例のようです。それが、結局近所とのつながりをより深くし、昔ながらのしきたりのようなものを踏襲していく方法なのでしょう。
今回、ご近所の目上の方たちのお話を聞く機会となって、身をもって実感しました。自分でもずっと心のそこで否定し、もっと合理的なやり方があるだろうと正直思っていました。しかし、お葬式があったことで、普段本当に疎遠になっていた親族の方たちに会うことができ、昔の話に花を添えることで自分が一人で大きくなったのではないことがはじめてわかるのです。
本来ならば、今の私の実家をつぐはずだった従兄弟が言っていたのですが、「人はただでは死なないんだ。こうやって疎遠になっている親族をまた集めてくれるんだよ。」と。都会での一人暮らしが長かった私は、自分や、家族、家系の歴史・・・その根底に流れる「こころ」というものをおろそかにしていたことにはじめて真剣に気づかされました。
そう、お葬式よりもこの「お盆」が、私の忘れていた子供のころの心を呼び覚ましてくれたような気がします。お盆前、台風一過の後、お墓のお掃除に行ったのですが、そのときに感じた空気の色を忘れません。
透明よりも透明・・・そんな表現で伝えられるのかわかりませんが、そこに何かあるようなくっきりさ・・・普通の空気だったら塵や埃、水蒸気などがなんとなくよどんだ感じがありますが、とにかく超透き通ったガラスの中にいるようなくっきりさ。そんな空気が自分の心を洗い流していくのを感じていました。
遠い祖先から、身近な身内の死。それを想い、感じ、受け止める。私の魂の旅は、今ひとつの分岐点を迎えた気がします。
私にとって、神や仏といったものは自分の心の中にいるような気がします。自分自身がそれを感じる努力をし、磨き、さらに上の魂に浄化していく。また、神や仏といったものは自然界、身近な人の中にも存在し、それをやさしく感じ取っていき、自分の中の神や仏とリンクさせていくこと。自分ひとりで成長してきたのではないんだということを本気で感じ、人に自然に生かされていることを本気で感じたとき、あらためて自分がこれから学び伝えていかなければならないことを想います。
朝の光の中に希望が見えます。
雨の音がやさしく響きます。
木々の緑が、花の鮮やかさが、心を洗い流し。
鳥の声が、生を呼び起こします。
明日の朝、船を流して(実際には川には流せませんが。)ご先祖様を見送ります。そして、お盆が終わり、夏が終わります。
ただなんとなく生きることなく、この生をしっかり見据えて、次の世代に伝えられるだけの魂を育てていく。自分がこの世界に誕生した奇跡に応えられるように。