この世に生きるということ
石原慎太郎著「天才」を読み終えた。
田中角栄が総理大臣だったのは私が中学生のときだ。
今もって、あれほど印象的な総理大臣はいなかったのだと改めて認識させられた。
石原慎太郎といえば、どちらかというと反田中派だったと思っていた。
その石原が田中角栄を「天才」と呼ぶ。
その不思議さに思わず手に取ってしまった。
自らが田中角栄としての1人称で書かれた文体は読みやすく、その感情表現は全く本人のもののようだ。
まだ中学生だった私は、田中角栄がどのようなことをしたのかよく理解できてはいませんでした。
読み進むにつれ、現在の日本を創ったのは今から40年も前に生きていた人であり、死して40年後にその功績の大きさを認められている。
「ロッキード事件」にしても詳しいことはよくわからないが、多分当時のアメリカにとって「田中角栄は邪魔」だったので「葬られた」ということか。
それも「天才」ゆえか。
人は「天才」とまでいってしまうとなかなかその本質までは理解されないものなのかもしれない。
最近「徹底」という言葉をよく思い出す。
ある経営者さんから聞いた言葉だが、「人から見て異常だと思われるほどにやること」だという。
それを聞いてからの今までやってきたことがとても中途半端にかんじてしまう。
人としての大きさ。
男としての大きさ。
経営者としての大きさ。
人とのつながりを何よりも大切にし、自分のことよりも世の中、未来のことを考え、人から異常だと思われても実行に移す行動力があり、結果が出るまで何とかする。
小さい時から「かっこいい男になりたい」なんて考えていたけど、今自分が思う「かっこいい男」はそんな人かな。